迷走日誌

哲学徒の思索とよべるかどうかさえわからない迷走の記録

約束

私は将来結婚するときに(できるかわからないが),絶対に「一生幸せにするよ」とは言わないと以前から決めている。私自身が,「裏切り」に敏感だからかもしれない。もちろん,考えの浅さからこういう言葉をはずみで言う輩もいるかもしれないが,たいていの場合,そのときは一生愛そうと心から思っているのである。その心のありようを思うと,責める気にはなれない。しかしやはり,いざそのような状況に巻き込まれれば,なぜなのか,あの約束はなんだったのかと,心が締め付けられるのもまた事実ではないだろうか。

 

ガブリエル・マルセルという思想家が『存在と所有』という論考のなかで約束について論じているらしい。いわく,約束は将来の自己を先取りして現在の私と同じ感じ方をするであろうと決め付けている時点で欺瞞であり,またかりに将来約束を履行する気がなくなったとしても約束を履行することにするのは,私はきっと約束を履行したいはずだと信じている相手を騙すことになる,と。

 

これは,私が以前から問題意識を持っていたことと完全に重なり合うものであり,とても驚いた。自分の考えがユニークなそれだとは思ったことはまったくないが,たいていは「彼の考え方ないし問題意識はわたしのと共通するところがある」というような,ゆるい関連性で捕捉されるにとどまるからである。ところが,マルセルの問題意識は私のそれとほぼ完全に重なり合っていたのである。私が研究したいと考えているエマニュエル・レヴィナスが彼の勉強会に参加していたというから,この重なり合いは単なる偶然ではなく,なぜ哲学をするのかという根本的な動機のなかに,彼と私とで共有しているものがあるからなのかもしれない。人は,自分と似た人間から何かを学ぼうとするものだ。否,自分と似ているが自分とは決定的に違う誰かを,人は頼みにするものではないか。そういう意味で,マルセルの思想に衝撃を受けたのは必然だったのかもしれない。

 

愛も人生も「また今日も続けてみよう」と毎朝決意をする。私は,そのような生き方を美しいと思う。もし私が結婚したら,毎朝自分の幸福に感謝し,生きることを日々決意するだろう。日々決意することをいま先取りすることは未確定の開かれた存在である自己への冒涜だろうか?私はそうは思わない。自己の未熟さと移ろいやすさを恥じ,世界の壮絶さを受け入れ,それでも自分を信頼するくらいは許されているのではないか。このようなことを考えてしまう私は,やはり哲学に向いていないのかもしれない。行き過ぎた自己同一性を戒めるのは,決して自我を崩壊させたいからではなく,たとえ幹は細くとも,しなやかに,根を張り続けるための戦略である。