迷走日誌

哲学徒の思索とよべるかどうかさえわからない迷走の記録

彼氏の性慾を刺激する彼女

とたまたま知り合った。

ネットの友人だったのだが,twitterに「新しいぱんつ買った!かわいい?」みたいなこと(ちなみにキラキラがついた紐パンであった)が書いてあったので,とりあえずいいねしたのだが,あとで通話してみると彼氏の性慾を刺激するために買ったとのことだった。

 

セクシーな衣装なり下着などを女性が買ったとき,男性(私を含めて)は,きっと男性をよろこばせるために買ったのだろうと思いがちであるが,それは先入見に毒されている。男性など見向きもせず,自分で自分を高めるため,美しい自分をみて恍惚せんがために買う女性のなんと多いことか。「彼氏とエッチするため?ぐへぐへへへ」などと聞こうものなら,フェミニストの軍勢が大挙してあなたのもとへ舞い降り,完膚なきまでに叩きのめされることであろう。

 

そのような意識があったため,私はむしろ自分のために買ったのだろうという推定を働かせていた。しかしその実は真逆であった。話によると,年の離れた性欲薄弱なる彼氏をエレクトさせんがための努力だったらしい。私は忘れていた。女性の自我の確立,自立がすすむ一方で,男性側の性への執着は,それと反比例するように,過去の遺物となりつつあるのである。

 

詳しく調べたことはないが,2000年前後の若者の性交経験率にくらべ,20年たった現在のそれは著しく低下している。セックスは,最高の娯楽ではなくなったのである。こんなありきたりな言説を吐くのは趣味ではないが,そう感じざるを得ない。

 

一方で,或る大学の友人は「20歳になるまでに童貞を卒業できなかったら,吉原で卒業する」などと言っていた。私はセックスしても人生は変わらないよと言ったが,それはある意味本音であり,ある意味嘘である。

 

童貞だったとき,私の心を占めていたのは「私は世界から受け入れられていない」という漠然とした絶望であった。セックスがしたいというよりも,こんなに世の中には人が溢れているのに,だれもその人生の秘密を見せてはくれないのかという,駄々っ子にもにた我を,抑えることができなかった。

 

セックスを,相手に対する自己開示だと論じる論考は枚挙にいとまがないが,あれは哲学的遊戯などではない。セックスは,人間に残された最後の何かである気がする。一体何なのかはまだわからないのだが。

 

性はあまりにも危ない。あらゆる宗教が,性慾の危うさを語り,仏教に至っては「九穴(口・両眼・両耳・両鼻孔・尿道口・肛門)の糞袋」と人間の身体を表し,情慾を戒めている(膣はどこにいったんだ??)。

 

仏教は,認知それ自体を問うことが多い。原始仏教が,キリスト教イスラム教などのように絶対者への帰依を求めるものではなく,むしろ瞑想やマインドフルネスを駆使することにより「よく見えるようになる」ことを目指す一つの営みであったことからすれば,これもうなずける。

 

仏教は,愛は執着だという。それに対して,キリスト教は愛にも種類があり,執着だけが愛ではないと説く。キリスト教に詳しくない人間が,仏教は愛を退けるがキリスト教は賛美するなどと一面的なことを言ったりもするが,これも正確ではない。キリスト教では愛は「エロース・フィリア・アガペー」の三つにわかれ,執着に近い愛はエロースである。こう考えれば,仏教的愛批判とキリスト教的愛賛美とは止揚(aufheben)することができる。

 

では,セックスはどのような愛なのだろうか?男性向けに解説された女性のセックス観に関する記事にはだいたい以下のようにかいてあった(出典は失念した)。

女性は一種のフェティシズムの対象(脚・胸・尻etc…)として愛でられることを好む一方で,それに尽きてしまうことは許さないのである。性慾の対象として興奮されるのと同じくらい,人格として愛されることを望む。  

 女性は,男性に慾望の対象として愛でて欲しいと思っているというのである。いきすぎたフェミニズムは,性慾の原点としてのフェティシズムを排斥してしまいかねないし,いきすぎたフェティシズムは,人格をセックスから追放し,女性を人形にしてしまう……そのように考えると,セックスはたぶんに高度な営みである。セックスで相性がわかるといっている恋愛マスター(?)とか「まずはやってみよ!」とまでいうヤリチンまで,もしかしたらこういう哲学を経験のなかに見出しているのかもしれない。真相はわからずじまいであるが。

 

最後に,三島由紀夫箴言を引用して終わりにしたいと思う。もっとも,私はこれには同意しかねるのであるが。

 女を抱くとき、われわれは大抵、顔か乳房か局部か太腿かをバラバラに抱いているのだ。それを総括する「肉体」といふ観念の下に。

── 三島由紀夫『鍵のかかる部屋』