迷走日誌

哲学徒の思索とよべるかどうかさえわからない迷走の記録

思いつきで

一生懸命書いていたブログが消えてしまった。

 

人生なんてそんなものだろう。もうあのテンションでは二度と書けないかもしれないが,とりもあへずこころみてみる。

 

人生のなかのいろいろなことに考えをめぐらせることが最近は多くなった気がする。おそらく,中二病とかいうやつとは違う。もっと,根源的な,祈りのような気持ちが芽生えてきた。最近,突然芸能人が亡くなるということが続いたかもしれない。死にたかっただろう人も,もう少し生きたかっただろう人も,なにか痕跡を残している。SNSでみる彼らの笑顔は,私たちに死を疑わせる── 彼らは死んだのだろうか?

 

生の生々しさが,きらめきが,儚さが,僕の心をえぐってることに気づいたのはなぜだろう。普通に生きて,食べて,寝て……でも明日死ぬかもしれない。そんなあたりまえのことを,実は自分自身のこととして,真面目には受け止めていなかった(受け止めているつもりではあったのだが)ことに気づけたのは,ごく最近であった(もしかしたら,まだ本当には気づけていないのかもしれないけどね)。

 

ハイデガーは,「私」しか死ねないこの「死」を見つめ,終わりがあることを意識して生きるとき,人はその本来的実存を恢復するとした。この目覚めのことを彼は「先駆的決意」と呼ぶのであるが,この文章を読んで理解できない人はまずいないだろう。人生は有限であり,であるからこそその有限性に気付いたときに人は実存を知る……しかし,私たちは知識として,私たちは死すべき存在であると知っている。誰もが,いつかは死ぬと分かっているのである。ハイデガーもこの事実を見逃してはいない。私たちは,その既知の事実から,抗うことのできない運命から,目をそらしていると彼は言うのである。

 

最近進撃の巨人の最新刊を読んだ。そこで思い出したのだが,地下室で主人公らが敵を拷問するシーンである

 

「俺たちのやってきたことは…間違っていない」

諫山創進撃の巨人』14巻,55話「痛み」)

ついさっきまで拷問者であった被拷問者は語る。そして,こう続ける。

 

「けど…こんなに痛かったんだな」

(前掲書)

 

 

私たちは,痛みを知っている。しかし,自分が与えていた痛みは,これほどまでであったのか……と,拷問者であった彼はただただ涙を流すのである。彼は,知っているはずが,なにも知らなかったのである。

 

私たちは,自殺する人の気持ちを,想像することができる。しかし,想像できる程度の苦しみが,人を死に誘うだろうか?私たち(生きることを今日も選択した人々)は,彼らの闇をどれだけ知ることができるだろうか。私は何も語ることができない。私は,何も知らない。私は,だからこの世を,「戦争」だと思う。私たちの知らないところで,誰かが今日も必死に戦っている。

 

私は,自殺志願者ではない。生きていたいと思う。しかし,哲学を学んでいる一人として,この問題と,正面から向き合いたいと思う。なぜこう宣言するかというと,哲学はあまりにも人生から,人間の現実から,人生の悲惨さから,はなれゆく傾向にもあるからだ。フランスの作家,アルベール・カミュはこう言う。

真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する,これが哲学の根本問題に答えることなのである。それ以外のこと,つまりこの世界は三次元よりなるかとか,精神には九つの範疇があるのか十二の範疇があるのかなどというのは,それ以後の問題だ。そんなものは遊戯であり,まずこの根本問題に答えなければならぬ。

── 『シーシュポスの神話』清水徹訳(『カミュ全集2』,新潮社,1972年,82頁 )

大学で哲学を学んでいると,単に知的遊戯に興じているかのようにみえる学生も散見される。時間とはなにか,存在とは何か,言語とは何か……

 

そんなとき「んなこたぁどうでもいい!この人生はどうなんだ!哲学して考えるのがよりによってそれかよ!!!!」みたく半ばぶちぎれた感情が渦巻くものである(もちろんそんなこと言いはしない)。

 

哲学することを許されている私たちは,絶対に社会になにかを還元しなければいけないと,私は信じている。人々は,この世界のあり方を,価値観を,十分に吟味し疑うだけの時間的精神的余裕を与えられていない。日々は容赦無くおそいかかり,食べなければならぬ。食べるためには働かなければならぬ。働くためには,夜は倒れ込むように寝るのである。

 

このようなことを書くと,上から目線だと思われてしまわないか心配である。私は,自分たちの方が偉いとは思っていない。それでは,奴隷が生活の心配をする代わりにスコレーを享受していたギリシア人と変わらない。しかし,認めなければいけない。考えるだけの私たちは,誰かの労働のもとに,誰かの配慮のもとに,誰かの汗のもとに,可能となる存在であるのだと。そのような私たちにできることはただひとつ,死ぬ気で考えることだけである。たかが学生が何をいうかと言われるかもしれないが,私は,それでこそ自分の役割を全うすることができ,はじめてこの幸運に報いることができるのではないかと考えている。おそらくこれは,すでに他の大学を卒業し,さらに学んでいるということからくる義務感なのかもしれない。いずれにせよ,何が己の生を可能にしているのかについて鈍い人間に,なにができるだろうか。私は絶対に忘れたくない。

 

ことわっておくと,存在の問題も,時間の問題も,真に人間的な問題であると私は確信している。しかしながら,つねに先立つ動機は,たとえ明示されなくとも,「人間とはなにか?(Was ist der Mensch?)」であるべきではないか。そこから始まった問いが,決して目指されることなく,しかし必然として,この問いに回帰する……誰かが哲学をすることを決意するとき,その門出を祝うのはかの問いであると,私は信じている。

 

読んでくださってありがとうございました。

忘れてなければまた更新します。

おやすみなさい。