迷走日誌

哲学徒の思索とよべるかどうかさえわからない迷走の記録

僕にとって神秘とは何か

もうすぐ今年も終わる。今年は本当に大変な一年だった。コロナがはやって,家に閉じこもるようになった。僕はもともと閉じこもりがちの人間なので,なにも困ったことはなかった。とはいえ,四月からの新しい大学生活を,すべてリモートで過ごさなくてはいけなくなったのは,こたえる人にはこたえたのではないだろうか。オンライン授業だからか,攻撃的な言葉遣いをする人も増えた気がする。そのような言葉に触れるたび,人間の脆さを思い知る。

 

哲学を学んでいると,実にさまざまなひとに会うことになる。神を信じている人,論理を信奉している人,美しさに囚われている人,自分は間違った場所に来てしまった,学歴が欲しかっただけなのに!と嘆く人……とにかくいろいろな人がいる。

 

僕が大切にしているのは,神秘である。とはいっても,オカルトめいたものではない。純粋な思惟を重ねて,何が正しいかを謙虚に考えていったとしても,なお到達し得ない,しかし私たちのすぐそばにある———そういう神秘である。

 

世の中には,どうも「頭のいい人」で神秘を信じている人が少ない。私から言わせれば,神秘は妄想でも幻覚でもなくて,全き実在なのであるが,しかしそれにしても神秘は嫌われる。悲しい。

 

僕は「頭のいい人」と思われることが多い。もちろん自分ではそんなことは思っていない。しかしながら,自分が考える訓練をしていること,筋の良さがあること,それを誇ってもいけないが,過小評価をしてもいけないこと……を肝に命じている。どんなことがあっても,自分に与えられたものをしっかり見ようとすれば,(間違うことはあれど),修正不可能なまでの根本的な過ちを犯すことはないのではないか……と常々思っている。ここでいう修正可能性とは,人間の手に負える範囲のことであり,それより深いところにおける人間の有責性——原罪といった類のもの——は,人間の手ではどうしようもないものであることは言うまでもない。

 

私は,努めて「頭のいい人」であろうとするが,それは神秘が狂人の妄想や精神の弱さから来るものではないことを示したいからである。ここでも繰り返しになるが,人間が本性的に有している弱さからは誰も自由ではない。しかし,人間の理性の全きを使用するとき,必然的に理性の外部——すなわち神秘——に気がつくはずだと私は確信しているし,その萌芽のようなものを私の人生をとおして身近な人に示したいと思っている。

 

私は,いったいどれほど自分の使命を果たせただろうか。

誰にも頼まれていない使命を背負いこむとき,人は飛躍するのではないか。

私は,私の飛躍を見ただろうか?

 

 

師走も終わりに近づいてきているが,やはり私は,この一年は実りあるものであったように思う。いい一年だった。実にいい一年だった。来年も,また生きることになるのだろう。

 

皆様,よい年末をお過ごしください。よくしてくれてありがとうございました。

 

 

 

約束

私は将来結婚するときに(できるかわからないが),絶対に「一生幸せにするよ」とは言わないと以前から決めている。私自身が,「裏切り」に敏感だからかもしれない。もちろん,考えの浅さからこういう言葉をはずみで言う輩もいるかもしれないが,たいていの場合,そのときは一生愛そうと心から思っているのである。その心のありようを思うと,責める気にはなれない。しかしやはり,いざそのような状況に巻き込まれれば,なぜなのか,あの約束はなんだったのかと,心が締め付けられるのもまた事実ではないだろうか。

 

ガブリエル・マルセルという思想家が『存在と所有』という論考のなかで約束について論じているらしい。いわく,約束は将来の自己を先取りして現在の私と同じ感じ方をするであろうと決め付けている時点で欺瞞であり,またかりに将来約束を履行する気がなくなったとしても約束を履行することにするのは,私はきっと約束を履行したいはずだと信じている相手を騙すことになる,と。

 

これは,私が以前から問題意識を持っていたことと完全に重なり合うものであり,とても驚いた。自分の考えがユニークなそれだとは思ったことはまったくないが,たいていは「彼の考え方ないし問題意識はわたしのと共通するところがある」というような,ゆるい関連性で捕捉されるにとどまるからである。ところが,マルセルの問題意識は私のそれとほぼ完全に重なり合っていたのである。私が研究したいと考えているエマニュエル・レヴィナスが彼の勉強会に参加していたというから,この重なり合いは単なる偶然ではなく,なぜ哲学をするのかという根本的な動機のなかに,彼と私とで共有しているものがあるからなのかもしれない。人は,自分と似た人間から何かを学ぼうとするものだ。否,自分と似ているが自分とは決定的に違う誰かを,人は頼みにするものではないか。そういう意味で,マルセルの思想に衝撃を受けたのは必然だったのかもしれない。

 

愛も人生も「また今日も続けてみよう」と毎朝決意をする。私は,そのような生き方を美しいと思う。もし私が結婚したら,毎朝自分の幸福に感謝し,生きることを日々決意するだろう。日々決意することをいま先取りすることは未確定の開かれた存在である自己への冒涜だろうか?私はそうは思わない。自己の未熟さと移ろいやすさを恥じ,世界の壮絶さを受け入れ,それでも自分を信頼するくらいは許されているのではないか。このようなことを考えてしまう私は,やはり哲学に向いていないのかもしれない。行き過ぎた自己同一性を戒めるのは,決して自我を崩壊させたいからではなく,たとえ幹は細くとも,しなやかに,根を張り続けるための戦略である。

 

 

彼氏の性慾を刺激する彼女

とたまたま知り合った。

ネットの友人だったのだが,twitterに「新しいぱんつ買った!かわいい?」みたいなこと(ちなみにキラキラがついた紐パンであった)が書いてあったので,とりあえずいいねしたのだが,あとで通話してみると彼氏の性慾を刺激するために買ったとのことだった。

 

セクシーな衣装なり下着などを女性が買ったとき,男性(私を含めて)は,きっと男性をよろこばせるために買ったのだろうと思いがちであるが,それは先入見に毒されている。男性など見向きもせず,自分で自分を高めるため,美しい自分をみて恍惚せんがために買う女性のなんと多いことか。「彼氏とエッチするため?ぐへぐへへへ」などと聞こうものなら,フェミニストの軍勢が大挙してあなたのもとへ舞い降り,完膚なきまでに叩きのめされることであろう。

 

そのような意識があったため,私はむしろ自分のために買ったのだろうという推定を働かせていた。しかしその実は真逆であった。話によると,年の離れた性欲薄弱なる彼氏をエレクトさせんがための努力だったらしい。私は忘れていた。女性の自我の確立,自立がすすむ一方で,男性側の性への執着は,それと反比例するように,過去の遺物となりつつあるのである。

 

詳しく調べたことはないが,2000年前後の若者の性交経験率にくらべ,20年たった現在のそれは著しく低下している。セックスは,最高の娯楽ではなくなったのである。こんなありきたりな言説を吐くのは趣味ではないが,そう感じざるを得ない。

 

一方で,或る大学の友人は「20歳になるまでに童貞を卒業できなかったら,吉原で卒業する」などと言っていた。私はセックスしても人生は変わらないよと言ったが,それはある意味本音であり,ある意味嘘である。

 

童貞だったとき,私の心を占めていたのは「私は世界から受け入れられていない」という漠然とした絶望であった。セックスがしたいというよりも,こんなに世の中には人が溢れているのに,だれもその人生の秘密を見せてはくれないのかという,駄々っ子にもにた我を,抑えることができなかった。

 

セックスを,相手に対する自己開示だと論じる論考は枚挙にいとまがないが,あれは哲学的遊戯などではない。セックスは,人間に残された最後の何かである気がする。一体何なのかはまだわからないのだが。

 

性はあまりにも危ない。あらゆる宗教が,性慾の危うさを語り,仏教に至っては「九穴(口・両眼・両耳・両鼻孔・尿道口・肛門)の糞袋」と人間の身体を表し,情慾を戒めている(膣はどこにいったんだ??)。

 

仏教は,認知それ自体を問うことが多い。原始仏教が,キリスト教イスラム教などのように絶対者への帰依を求めるものではなく,むしろ瞑想やマインドフルネスを駆使することにより「よく見えるようになる」ことを目指す一つの営みであったことからすれば,これもうなずける。

 

仏教は,愛は執着だという。それに対して,キリスト教は愛にも種類があり,執着だけが愛ではないと説く。キリスト教に詳しくない人間が,仏教は愛を退けるがキリスト教は賛美するなどと一面的なことを言ったりもするが,これも正確ではない。キリスト教では愛は「エロース・フィリア・アガペー」の三つにわかれ,執着に近い愛はエロースである。こう考えれば,仏教的愛批判とキリスト教的愛賛美とは止揚(aufheben)することができる。

 

では,セックスはどのような愛なのだろうか?男性向けに解説された女性のセックス観に関する記事にはだいたい以下のようにかいてあった(出典は失念した)。

女性は一種のフェティシズムの対象(脚・胸・尻etc…)として愛でられることを好む一方で,それに尽きてしまうことは許さないのである。性慾の対象として興奮されるのと同じくらい,人格として愛されることを望む。  

 女性は,男性に慾望の対象として愛でて欲しいと思っているというのである。いきすぎたフェミニズムは,性慾の原点としてのフェティシズムを排斥してしまいかねないし,いきすぎたフェティシズムは,人格をセックスから追放し,女性を人形にしてしまう……そのように考えると,セックスはたぶんに高度な営みである。セックスで相性がわかるといっている恋愛マスター(?)とか「まずはやってみよ!」とまでいうヤリチンまで,もしかしたらこういう哲学を経験のなかに見出しているのかもしれない。真相はわからずじまいであるが。

 

最後に,三島由紀夫箴言を引用して終わりにしたいと思う。もっとも,私はこれには同意しかねるのであるが。

 女を抱くとき、われわれは大抵、顔か乳房か局部か太腿かをバラバラに抱いているのだ。それを総括する「肉体」といふ観念の下に。

── 三島由紀夫『鍵のかかる部屋』 

 

 

 

成績

大学の成績はなんともつまらないものだった。すごく良くもなく,すごく悪くもなくといったところだろうか。とにもかくにも以前通っていた大学での成績よりは遥かによくなった。あの時代は酷かった,週に一回大学に行けばいいほうだったりしたし。

 

そろそろ履修を考えなけれんばいけない時期なのでシラバスをのぞいてみた。今学期はオンデマンド型でなくZoomを使用する授業が多くなりそうである。オンデマンド型ばかりで嫌気がさしている学生からすれば,羨ましい限りなのかもしれないが,私のなかでは怠けたい気持ちとまともな授業をうけたい気持ちが拮抗している。はっきり言えば,面白い授業は生で,つまらないやつはオンデマンドで……と思ってしまう。

 

まずは言語の問題である。どの程度の言語にどの程度の力を入れるか……はとても悩みどころである。時間は有限だし,メンタルは弱い。言語の勉強は,メンタルをえぐられることがままある。

 

ほかにも,私はそれほど問題に感じていないが,友人に会えないという問題がある。いまだにオンライン授業を維持している弊学では,友人と会う機会がほとんどない。そんなことが続くと「画面の向こうの学友は本当に存在するのだろうか?」などと期せずして素朴実在論から目覚める人間が現れるものである。ようこそ哲学の世界へ!(なんか違うぞ

 

大学受験をがんばってようやく青春を謳歌できると思ったのも束の間,来る日も来る日も画面の向こうと交信し続ければ生の実感が損なわれるのも当然だろう。最も,私はそのような瑞々しい感性からは遠く離れてしまった気もする。どこかで,冷めているのである。そもそも友人が少なかったせいもあるかもしれないが,こういうときほどボッチが強いというものである。社会の中でいまや強者が逆転したのではないか?孤独を愛することができる人間が,もっとも現代的な人間ということになるのだろうか……

 

 

 

 

 

 

 

思いつきで

一生懸命書いていたブログが消えてしまった。

 

人生なんてそんなものだろう。もうあのテンションでは二度と書けないかもしれないが,とりもあへずこころみてみる。

 

人生のなかのいろいろなことに考えをめぐらせることが最近は多くなった気がする。おそらく,中二病とかいうやつとは違う。もっと,根源的な,祈りのような気持ちが芽生えてきた。最近,突然芸能人が亡くなるということが続いたかもしれない。死にたかっただろう人も,もう少し生きたかっただろう人も,なにか痕跡を残している。SNSでみる彼らの笑顔は,私たちに死を疑わせる── 彼らは死んだのだろうか?

 

生の生々しさが,きらめきが,儚さが,僕の心をえぐってることに気づいたのはなぜだろう。普通に生きて,食べて,寝て……でも明日死ぬかもしれない。そんなあたりまえのことを,実は自分自身のこととして,真面目には受け止めていなかった(受け止めているつもりではあったのだが)ことに気づけたのは,ごく最近であった(もしかしたら,まだ本当には気づけていないのかもしれないけどね)。

 

ハイデガーは,「私」しか死ねないこの「死」を見つめ,終わりがあることを意識して生きるとき,人はその本来的実存を恢復するとした。この目覚めのことを彼は「先駆的決意」と呼ぶのであるが,この文章を読んで理解できない人はまずいないだろう。人生は有限であり,であるからこそその有限性に気付いたときに人は実存を知る……しかし,私たちは知識として,私たちは死すべき存在であると知っている。誰もが,いつかは死ぬと分かっているのである。ハイデガーもこの事実を見逃してはいない。私たちは,その既知の事実から,抗うことのできない運命から,目をそらしていると彼は言うのである。

 

最近進撃の巨人の最新刊を読んだ。そこで思い出したのだが,地下室で主人公らが敵を拷問するシーンである

 

「俺たちのやってきたことは…間違っていない」

諫山創進撃の巨人』14巻,55話「痛み」)

ついさっきまで拷問者であった被拷問者は語る。そして,こう続ける。

 

「けど…こんなに痛かったんだな」

(前掲書)

 

 

私たちは,痛みを知っている。しかし,自分が与えていた痛みは,これほどまでであったのか……と,拷問者であった彼はただただ涙を流すのである。彼は,知っているはずが,なにも知らなかったのである。

 

私たちは,自殺する人の気持ちを,想像することができる。しかし,想像できる程度の苦しみが,人を死に誘うだろうか?私たち(生きることを今日も選択した人々)は,彼らの闇をどれだけ知ることができるだろうか。私は何も語ることができない。私は,何も知らない。私は,だからこの世を,「戦争」だと思う。私たちの知らないところで,誰かが今日も必死に戦っている。

 

私は,自殺志願者ではない。生きていたいと思う。しかし,哲学を学んでいる一人として,この問題と,正面から向き合いたいと思う。なぜこう宣言するかというと,哲学はあまりにも人生から,人間の現実から,人生の悲惨さから,はなれゆく傾向にもあるからだ。フランスの作家,アルベール・カミュはこう言う。

真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する,これが哲学の根本問題に答えることなのである。それ以外のこと,つまりこの世界は三次元よりなるかとか,精神には九つの範疇があるのか十二の範疇があるのかなどというのは,それ以後の問題だ。そんなものは遊戯であり,まずこの根本問題に答えなければならぬ。

── 『シーシュポスの神話』清水徹訳(『カミュ全集2』,新潮社,1972年,82頁 )

大学で哲学を学んでいると,単に知的遊戯に興じているかのようにみえる学生も散見される。時間とはなにか,存在とは何か,言語とは何か……

 

そんなとき「んなこたぁどうでもいい!この人生はどうなんだ!哲学して考えるのがよりによってそれかよ!!!!」みたく半ばぶちぎれた感情が渦巻くものである(もちろんそんなこと言いはしない)。

 

哲学することを許されている私たちは,絶対に社会になにかを還元しなければいけないと,私は信じている。人々は,この世界のあり方を,価値観を,十分に吟味し疑うだけの時間的精神的余裕を与えられていない。日々は容赦無くおそいかかり,食べなければならぬ。食べるためには働かなければならぬ。働くためには,夜は倒れ込むように寝るのである。

 

このようなことを書くと,上から目線だと思われてしまわないか心配である。私は,自分たちの方が偉いとは思っていない。それでは,奴隷が生活の心配をする代わりにスコレーを享受していたギリシア人と変わらない。しかし,認めなければいけない。考えるだけの私たちは,誰かの労働のもとに,誰かの配慮のもとに,誰かの汗のもとに,可能となる存在であるのだと。そのような私たちにできることはただひとつ,死ぬ気で考えることだけである。たかが学生が何をいうかと言われるかもしれないが,私は,それでこそ自分の役割を全うすることができ,はじめてこの幸運に報いることができるのではないかと考えている。おそらくこれは,すでに他の大学を卒業し,さらに学んでいるということからくる義務感なのかもしれない。いずれにせよ,何が己の生を可能にしているのかについて鈍い人間に,なにができるだろうか。私は絶対に忘れたくない。

 

ことわっておくと,存在の問題も,時間の問題も,真に人間的な問題であると私は確信している。しかしながら,つねに先立つ動機は,たとえ明示されなくとも,「人間とはなにか?(Was ist der Mensch?)」であるべきではないか。そこから始まった問いが,決して目指されることなく,しかし必然として,この問いに回帰する……誰かが哲学をすることを決意するとき,その門出を祝うのはかの問いであると,私は信じている。

 

読んでくださってありがとうございました。

忘れてなければまた更新します。

おやすみなさい。